1970年(昭和45年)

この写真は5軒目の家が建て始められた時に東1丁目11~12番地付近から撮られたものということです。
(写真中央の矢印の場所に建築中)
美松ヶ丘グリーンポリスと美松ヶ丘(現在の東1丁目~2丁目の東側)の2つの区域がありました。
そしてその2つの地域を総称して「美松ヶ丘」の通称名で呼ばれるようになりました。
「美松ヶ丘」の名称は、写真にも見られるようにこのあたりにアカマツの木があり、当時造成を行った三郷住宅の社員が命名したものが採用されたそうです。
(通称名としては美松ヶ丘になりましたが、公的住所としては、勢野東に含まれていました)
2月11日
日本初の人工衛星『おおすみ』を国内技術のみで開発したL-4Sロケットでの打ち上げに成功しました。しかし、電源であった電池が高温のため電力を喪失し、翌日には信号による通信を失ってしまいました。
1971年(昭和46年)
5月9日

急速に建築と造成が進み現在の西1丁目と東1丁目には、家が増えていることがわかります。
自治会館や中央公園はまだありません。
住み始めた住民がそれぞれに集まって、自治会的な活動を美松ヶ丘グリーンポリスと美松ヶ丘で開始し始めたらしいですが、当時の自治会の会合や集まりは、個人のお宅や多くあった空き地などを利用して開催されていたそうです。
西1丁目の一部や2丁目付近のブロック割の番号が変則的なのは、この造成の順にあるのですね。
この年の三郷町の広報さんごうなどに美松ヶ丘の名前が初めて登場し、5月には三郷町と自治会の懇談会が中央大通りで開催された記載が見られます。
町勢要覧さんごう 昭和46年10月16日発行によると、写真から2か月後の7月現在で、美松ヶ丘の世帯数が100戸、人口352名と記載がありました。1年強で100戸の家が建てられたということになります。
9月18日
世界初のカップ麺であるカップヌードルが日清食品から発売されました。
1972年(昭和47年)
10月23日
勢野北口に跨線橋が設置される。
それまでは、無人踏切で道幅も狭く通行に危険があるということで、美松ヶ丘、東信貴ヶ丘、三室、夕陽ヶ丘の各自治会からの強い要望で三郷町と近鉄が工事費を出し合い設置されました。
1973年(昭和48年)
このころには美松ヶ丘グリーンポリスか美松ヶ丘で、現在の子ども会の前身となる集まりが作られていたそうです。
3月28日
美松ヶ丘内に三郷美松ヶ丘簡易郵便局が開設される。
現在の東1丁目6番地にありました。
1977年に廃止されKマート(現在のヤオヒコの場所にあったスーパーマーケットで勢野バザールとも呼ばれていた)の2階に三郷勢野東簡易郵便局として移動されました。
さらにヤオヒコの一時閉店に伴い2016年6月13日に一時閉鎖され、同年11月1日に現在の勢野北口駅前のヤオヒコの斜め向かいに移動され現在に至ります。
三郷勢野東簡易郵便局 | inukugi web | (quicca.com)
10~11月ごろか?

写真は、1973年に前年の10月に設置された跨線橋から撮影された勢野北口駅の写真です。
駅前の通りはまだ舗装されておらず、空き地が広がっていたことがわかります。
1975年(昭和50年)
1月31日

のちの西2丁目と東2丁目も増設され、家がだいぶ増えてきました。
中央公園が作られ、南東方向に初代自治会館(集会所)の建物も見えます。
駅前に見える水色の屋根の建物は、スーパーマーケットです。
寿司屋、豆腐屋、肉屋、花屋、後にお好み焼き屋が入った建物でKマート(勢野バザール)と呼ばれていました。
2階に本屋、居酒屋、中華屋や先述の簡易郵便局などが入っていた時期もあります。
この年の4月10日に発行された三郷町の第8号議会だよりの一般質問に対する回答には、「勢野北口駅の駅前広場の整備が急務」との記載もあり、「王寺駅前のようなイメージで駅の移転も考慮に入れ、検討を加えていかなければならない」との記載もあります。
これは今、ヤオヒコが建っている場所が広い空き地であったため、そこを開発する計画であったと思われます。
しかし、その後何年間にもわたり何度も議題には上がっているものの、地権者との調整が実現せず今日に至っているようです。

この写真は、同じ年に西1丁目7番地中央通りを北側に向かって撮られた写真です。
造成がされて間もない時期ではありましたが、造成と建築のトラックが道路を行きかっていたため、道路が陥没するなどしてひどい状況となっていたそうです。
その後、三郷町の都市計画で現在の美松ヶ丘入口付近(西1丁目1番地付近:旧勢野小字丸山付近)から中央通り奥(現在の北公園-第2・3児童公園:旧勢野小字大平付近)が美松ヶ丘線として整備されることになり、改善されることになりました。
8月15日

8月16~17日に第1回 美松ヶ丘サマーフェスティバルが美松ヶ丘グリーンポリスと美松ヶ丘の自治会が共催で開催されました。
この写真は、開催直前に(現在の南東側の入口付近から西側を向いて)撮られた写真です。
3万円の予算で、櫓や電気工事を行い、機材や備品なども無かったため、大阪の盆踊り会場から提灯などを無償で借り入れを行い、さらに踊りの指導をしてくださる方を招いての開催であったそうです。
そのため提灯には大阪の商店街の店の名前が入っていたそうです。その際、現在の勢野東(旧北垣内)の子どもたちも招待して大盛況のうちに開催できたということでした。
1976年(昭和51年)

歩道の拡張が決まったとのことで三郷町議会だよりに掲載された勢野北口駅前の写真で、駅前から美松ヶ丘方面(東向き)に撮られたものです。
当時はまだ舗装もされておらず、盛り土のみの歩道でした。
防犯灯(街灯)もなく、道も舗装されてない個所が多かったため、雨が降ると道路がぬかるんで泥だらけになってしまっていたそうです。
特に電車で会社通勤する人は、駅まで長靴を履き、駅で革靴に履き替えていたという話もお聞きしました。
1977年(昭和52年)


北公園(第3児童公園)から北側を向いて撮られた写真です。まだ、37・38ブロック付近は家が建っておらず、その奥の斜面は、子どもたちの間では「はげ山」とも呼ばれていました。平群の春日台(竜田川駅西側に広がる住宅地)2丁目への抜け道もあったため(実は今もあります)、遊び場にもなっていました。
4月1日
通称名であった美松ヶ丘が大字として三郷町の議会で設定され、5月には美松ヶ丘西1丁目、西2丁目、東1丁目、東2丁目に分割されました。 これにより、通称住所であった『美松ヶ丘』の名称が公的な住所表記として正式に用いられるようになりました。
また、この年に自治会内の活動として、『歩こう会』が発足、『美松ヶ丘青年会』が結成され、『歩こう会』は千光寺と談山神社へ、『青年会』はサマーフェスティバル、献血運動、年末の火の用心などの活動を行っていました。残念ながらいずれも現在は解散しているそうです。
9月5日
ボイジャー1号がアメリカ航空宇宙局(NASA)によって打ち上げられました。ボイジャー1号は、木星や土星の惑星探索を行った無人探査機です。異星人に向けたメッセージを記録したゴールデンレコード(データ内容へのリンク)を搭載していることでも有名です。しかし、このボイジャーが最初にその可能性がある恒星に到着するまで4万年掛かると言われているため、私たちが生きている間には、まだ見ぬ異星人に届くことは無いでしょう。2021年現在、太陽系の外に出て飛行観測を続けており、人間が作った物で地球から最も遠くにある物となっています。