1821年(文政4年)

日本で最初の地図を作ったことで有名な伊能忠敬の地図を元に陸軍参謀局が模写により作成したものです。
現在の美松ヶ丘付近は、山や田畑でおそらく集落もない地域であったとみられます。南にある赤い線は街道(古い道:信貴川にかかる信貴橋付近に石碑が残っています)で椿井村の間が美松ヶ丘付近であると思われます。
総持寺村、西・東勢野村、南畑村、立野村が現在の三郷町の場所です。
1868年(明治元年)
5月19日
奈良県ができる。
旧幕府の天領であった奈良に大和鎮台が設置されていましたが、奈良県が設置されました。
※天領:江戸幕府の直轄領(直接治める地域の事)
1874年(明治7年)
明治橋が作られる。
現在の三郷小学校の前身の『第三大学区第十三 中学校区第六十六番小学「明新舎」』が開校する。
1876年(明治9年)
奈良県が堺県に合併される。
堺県という県が当時設置されており、奈良県は堺県に吸収される形で堺県に変わりました。
この年に東勢野村と西勢野村が合併して勢野村になりました。
1879年(明治12年)
惣持寺村が勢野村に合併される。
※惣持寺村は、現在の勢野東6丁目付近(若草橋付近)にあった村です。古くから住まれている方には通称名で現在も総持寺という呼称を使っている方もいらっしゃいます。
1881年(明治14年)
堺県が大阪府に合併される。
奈良公園などを設置した堺県が大阪府に吸収される形で合併しました。これにより、現在の奈良県は大阪府になりました。
1887年(明治20年)
大阪府から奈良県が独立し再設置される。
大阪府の地域があまりに広すぎることが問題となり、奈良県であった地域は大阪府から独立して再び奈良県に戻りました。
1889年4月(明治22年)
平群郡勢野村・立野村・南畑村の3つの村で平群郡三郷村が発足する。
この時に初めて現在の三郷町の元となる三郷村ができました。この当時、生駒郡はまだなく平群郡という名前でした。
1897年4月(明治30年)
三郷村が平群郡から生駒郡に変更される。
添下郡・平群郡が一緒になり生駒郡が設置されました。それに伴い三郷村も生駒郡へと所属が変更となりました。
1922年(大正11年)
信貴生駒電気鉄道が王寺駅と山下駅、鋼索線の山下駅と信貴山駅間を開業する。
信貴生駒電気鉄道が、現在の近鉄王寺駅と近鉄信貴山下駅に鉄道を開業し、信貴山下駅から信貴山へのケーブルカーを開業しました。
当時信貴山下駅は、山下駅という名前でした。
この時の名前から近鉄生駒線は、通称名として、信貴電とも呼ばれるようになりました。
※ 鋼索線 :ケーブルカーのことです。
1925年(大正14年)
11月5日
信貴生駒電気鉄道が、信貴生駒電鉄に改称(事業譲渡)される。
1926年(大正15年)
10月21日
山下駅~元山上口駅間が開通する。
この時に現在の美松ヶ丘の南に鉄道が敷設されました
(まだ勢野北口駅はありません。)
1927年(昭和2年)
4月1日
前年12月28日に開通していた元山上口~新生駒駅(仮設駅)と新生駒駅~生駒が接続され、王寺~生駒駅の全線が開通する。
当時、さらに生駒から私市駅を経由して枚方駅まで繋ぐ計画もありましたが、私市駅と枚方東口駅(現:枚方市駅)を7月に開通させたのち(現在は京阪)、生駒と私市間の地形の複雑さと勾配のきつさのため中止となりました。
1941年(昭和16年)
12月8日
真珠湾攻撃により第二次世界大戦に参戦。
1945年(昭和20年)
7月24日
王寺駅を狙った空襲を受ける。
8月14日
第二次世界大戦が終結する。
1947年(昭和22年)
三郷中学校が開校し、三郷国民学校から三郷小学校に改称される。

これは入手できた最も古い写真で、1947年9月23日に進駐軍として日本に駐留していたアメリカ軍(GHQ)により撮影されたものです。 Fairchild(フェアチャイルド社)の K-17B という非常に大型の広角カメラによって高度2438mから撮影された写真の1/3程を切り取っています。
美松ヶ丘ができる付近は、まだらに家が少し見えるものの、まだまだ田畑がほとんどです。
王寺付近(特に北口付近)は、戦前より大阪方面、奈良市内方面、和歌山方面、信貴山・生駒方面への鉄道の要所となっていたこともあり、多くの家があったことがわかりますが、駅南側はまだ畑がほとんどで町の中心は北口であったことがわかります。
1951年(昭和26年)
9月10日
山下駅が信貴山口駅に改称される。
11月2日
勢野北口駅が開業する。
1956年(昭和31年)
信貴山口駅が信貴山下駅に改称される。